50歳からの温泉一人旅と60歳から始めた低山ハイキングの記録

50歳を過ぎてから温泉一人旅にハマり、60歳を過ぎて低山ハイキングの楽しさを知りました。山に登って温泉に浸かる醍醐味を知ったら、やめられませんって( ´艸`)

私の3.11 13年前あの日・・・

13年前の3月11日。私はいつものように会社でお仕事中でした。会社の事務所は2階にあり、下は製造現場で、ブレージングをするための高温炉も流れています。

 

下が空洞のせいか、この建物は普段からよく揺れます。道路を大型が走っただけで、震度2くらいの体感を感じるほどでした。

 

最初の揺れの際、最初はパソコンが飛ばされないように抑えていました。男性陣は、書類棚を抑えようと、体重を掛けたりしていましたが・・・どちらも揺れには勝てず。。だって、立っていられないような揺れだったのですから。

 

一回目の揺れが少し治まった時点で、とにかく外に出ようとしました。女性は2人だけの職場でしたが、その時、後輩の女の子が私の後を追ってきました。

 

出口に差し掛かったところで、二度目の強い揺れ。その女の子は、そこで転んでしまいました。しかも、そこはグラグラと揺れる書類棚の前。とっさに私は手を伸ばし、片手でその子の襟首をつかんで、引っ張り上げました。丁度、子猫を加えた母猫のような形です。

 

私の左手は、出口付近にあった、背の低い、床に接着させていた棚を掴み、テコの原理みたいな状態だったかと思います。それにしても、火事場の馬鹿力とは、よく言ったものです。

 

外に出て、全員の無事を確認した後、社長が言いました。

「では、社内に戻って片づけを始めましょう」

はぁ???ですよね(-_-;) だって、まだ大きな余震は続いているし、みんな家のことが心配だし・・・

 

一人の若い課長が言ってくれました。

「社長、片付けは後からにしましょう。みんな家も心配でしょうし。それに、このまま後片付けをして、誰か怪我をしたりしたら、会社の責任問題にもなりますから」って。

 

結果、いったん帰宅となりましたが、次の日から早速片づけを開始することになりました。(土日なんですけどww)

 

帰り道、信号が止まっている交差点では、1台ずつ譲り合いながら通過。家の近くまできたら、道路が右側2/3ほど崩れてしまって通行困難な状況。でも、家にはアトムとレオがいると思うと・・・

 

私は急遽、車をバックさせ、アクセルをべた踏みしたまま、左側の斜めの崖状の場所に左の車輪を乗せる形で、勢いで通過しました。(次の日、この場所まできましたが、怖くて通れませんでした(^▽^;)

 

帰宅をすると、夫は既に家にいました。なんと、会社の点呼さえ無視して、わんこ達が心配で帰ってきてしまったのだとか。夫の会社では、この時、大騒ぎになっていたそうです。月曜日出社したときに、大目玉をくらったのは言うまでもありません。

 

幸い、自宅の被害はさほどでもありませんでした。これ以降は、輪番停電に合わせて、会社への出社がランダムとなったり、岩手県の宮古市に住んでいる夫の姉を探し続けたりと、決して忘れることのできない苦い思い出です。

 

昨日、チョッと目にしたニュースがありました。

「どこの出身?」と聞かれることで、3.11の甚大な被害を受けた人たちは、その時の記憶がフラッシュバッグしてしまうそうです。ご両親や、近しい人たちを亡くしていたり、飢えや寒さと戦った日々のことを、「地震、大丈夫だったの?」と聞かれても、どう答えて良いのか分からないということです。

 

私の周りにも、避難したまま、今はその地で職に就き、平穏に暮らしているという人が数人います。知っているからこそ、私も周りも、地震の話はしません。

 

昔だったら、出身地を何気なく聞いても、話のネタくらいの軽い理由でしたが、災害の多い今、相手が私に「出身は?」と聞いてくるまでは、私は聞かないようにしようと決めました。