50歳からの温泉一人旅と60歳から始めた低山ハイキングの記録

50歳を過ぎてから温泉一人旅にハマり、60歳を過ぎて低山ハイキングの楽しさを知りました。山に登って温泉に浸かる醍醐味を知ったら、やめられませんって( ´艸`)

小さな大大名が育んだ町「さくら市喜連川」を歩いてきました

栃木県さくら市喜連川は、以前は単独で喜連川町でした。町村合併で氏家町と合併し、さくら市となったのです。

 

仕事で時々通ることと、以前、温泉に入ったことがあるくらいで、かなり近くて遠い町でした。足利氏ゆかりの地という看板を目にしていて、それがずっと気になっていたので、今日は歩いてみました。

 

小さな大大名ってなに?

出発は、道の駅きつれがわです。

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GWも終わった今日は、駐車場も空いていました。ここからゆっくり歩いて、2時間の街歩きを楽しみました。歩くのが大変という人は、レンタサイクルもあります。1日500円で、電動アシスト付きですから、おすすめです。

 

まずは小さな大大名の話 

江戸時代の大大名といえば、10万石以上をさします。例えば、加賀100万石とか、伊達62万石といった、早々たるお家です。

 

ところが喜連川城主は、たったの5千石という旗本なみです。なのに、江戸城に登城すれば、大大名と同格、あるいはそれ以上の扱いを受ける身だったようです。

 

参勤交代は免除とか、正室は朱傘を使うとか、様々な特例があったうえに、徳川の家臣ではなく独立した一国という扱いでした。

 

でもなぁ・・たった5千石で、10万石以上の本物の大大名と肩を並べるって、逆に経済的にも大変だっただろうなぁって思っちゃうけど^^;

 

それもこれも、将軍足利尊氏の子孫が枝分かれし、将軍の系統とは別に「鎌倉公方」が誕生し、そこからさらに分派して古河公方が誕生し、千葉に小弓公方が発したことが最初。

 

豊臣秀吉が小田原攻めを行い、後北条氏などと戦ったおり、古河公方は後北条側についた負け組。小弓公方は、秀吉についた勝ち組ってわけ。

 

同じように負け組になってしまった塩谷氏が納めていた塩谷地区から、塩谷氏を排除に、ここに小弓公方を据えたのが、豊臣秀吉

 

ここから、足利尊氏の血流を組む、喜連川足利氏が誕生したそうですよ。

 

足利氏といえば、源氏の血を継ぐ高貴な血。だから、豊臣秀吉は、大切にしたのでしょう。

 

徳川家康も、自分の家系図を新田氏の出とした家系図を作って、自分は清和源氏の血を引くものとしたわけだから、同じ源氏の血を粗末にはできなかったというのが、小さな大大名の流れです。

 

こうした大名を「高家」といい、家臣という位置づけにはないまま、無位無官のまま保護されていました。

 

ちなみに、こうした高家の扱いを受けた大名は、土岐氏明智光秀の源流)、畠山氏、吉良氏、今川氏、上杉氏などがあります。

 

スッキリしたところで喜連川散歩♪

とりあえず、時系列で紹介します。

龍興寺 

最初にたどり着いたのは、足利家歴代の墓所とある龍興寺でした。

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そして、足利家歴代の墓所がこちらです。

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格子の間から、のぞき見すると、こんな感じ^^;

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で、ここにあった説明の看板。

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とあるけど、足利尊氏がこの寺を建てたというのは、日本語的間違いかもしれません。彼が生きていたころ、喜連川なんて、絶対知らなかったはずですから。

 

喜連川公方初代国朝、2代頼氏の父の戒名が、龍光院だったので、その名を取って寺の名としたのが最初らしいです。そこに歴代喜連川足利氏の菩提寺とすると同時に、足利将軍、鎌倉公方古河公方喜連川公方の歴代法名を刻んだ供養塔があります。

 

足利家歴代の墓所というのは、この辺りに理由があるのかもしれません。実際は、喜連川足利氏、歴代(江戸時代限定)の墓所というお寺です。

喜連川公方は、後の廃藩置県喜連川藩が廃藩となり、13代聡氏の時に喜連川姓を改め、足利姓に戻っています。

 

続いて、観光案内所に寄りました。

 

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喜連川興行銀行の建物です。入ると、まずは検温、そしてアルコール消毒と住所の記帳です。GW最終日には、数名の人が記帳していますが、今日は私が初めて見たいです。

 

そこで貰ったパンフレットと地図を片手に、喜連川町の中心部を散策します。

 

喜連川神社

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こちらは、喜連川神社の入り口です。なかなかの大木ですが、上部の枝は、最近落とされてしまったようです。

 

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こちらの建物の中には、黒い神輿が格納されていました。黒い神輿には、金色の装飾がされていて、なかなか豪華な雰囲気でした。

 

喜連川御用堀

黒い板塀が、角館を思い起こすような雰囲気です。

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黒い塀の下を流れるのが、御用堀。

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160年前に整備された、農業用水路だそうです。今も現役で、その役割を担っているというのには驚きです。

水路の沿って歩くと、中には大きな鯉が泳いでいる場所もありました。車や人と出会うこともなく、とっても穏やかな散歩道です。

 

寒竹囲いの家

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武士の家の境界線を、竹で囲み塀としたのが始まりです。板塀よりメンテナンスの費用が掛からないだろうという、6代藩主の発案だそうです。しかし、竹ですからねぇ・・・しっかり根を切らないと、いたるところに生えてしまうきがするのですが。。

 

大手門

大手門まで戻ります。

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この大手門をくぐったさきが、お城山でもあるお丸山公園になります。東日本大震災で、山肌がかなりくずれてしまい、桜の名所だった この場所も、今はさほどのことも無くなってしまいました。

 

喜連川本陣

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昼間は、お蕎麦屋さんが、ここで営業されています。

 

本陣とは、大名行列の際など、本体が足を休めた宿泊所です。その後、ここは改装され、明治時代には警察署として使われていました。

 

当時の警察署が残っているのは、国内でも珍しいことです。

 

右奥に見えるのが、これまた珍しい付き抜き井戸で、今も水が湧き出しています。

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喜連川町の昭和な建物

散策をする道々で、昭和な建物を見つけました。いくつか写真を撮ってきたので紹介します。実は、もった沢山あったのですが・・・

 

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この町は、本当に城下町らしさにあふれていました。歩く道も細く、いたるところで曲がっていて、楽しい散歩でした。

 

まとめ

2、3時間程度で歩き回れるサイズの町が好きです(笑)実は、この喜連川には温泉もあって…平地なのに硫黄泉がでています…しかも、日本三大美肌の湯です…入ってこようと計画していたのですが、この散策の後の予定が押してしまい、温泉には入れませんでした。

 

次は温泉メインで行ってみたいと、切に願っています。